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フィリピン系アメリカ人のアイデンティティ

カリフォルニアに生まれたフィリピン系二世が考える「フィリピン人とは何か」

当時僕は6歳だった。自分の掌を両親に広げて見せては「見て!僕って白いよ」と得意気に言っていた。だが、成長するにつれてだんだん本当の自分の姿を拒むことは明らかに難しくなっていった。どうあがいても自分がフィリピン系であるということを拒めない現状には、常に複雑な気持ちが漂っていた。

子供の頃僕の髪は茶褐色で、他の多くのフィリピン人のようなカラスの羽毛のごとく黒い髪ではなかった。周りのみんなには僕が英語のネイティブで英語しか話せないことを明確にし、両親には当時通っていた<ほとんどが白人の学校>での集会に参加する時は「中国語を話すな」と命じていた(アジアの言葉はすべて中国語と思っていた)。その頃の僕のヒーローはスパイダーマン、バットマン、ルークスカイウォーカーといったアメリカコミックの主人公達だった。

小学1年生の時、担当の先生に「君はアメリカで生まれたんだからアメリカ人だよ」と言われた。その後僕の<瓶の中のアイデンティティ>は呪文のようにつきまとった。僕はアメリカ人だ。僕はアメリカ人だ。僕はアメリカ人だ…..。

だが、明らかに拒むことができないことがあった。僕の身体特徴はまわりの白人の友人やクラスメートとは異質のものであった。「外国」の文化風習の実習においても、僕は違和感なく自然にできた。自分は明らかに周りと違った。確かに僕はアメリカ文化との関連が深いけど、神秘的にも、日常生活の様々な側面において「フィリピン人的特徴」が現れたのだった。

もちろん多くのフィリピン系アメリカ人は既にこういう体験をしていると思う。僕は思春期を経て、大学に通うようになったが、その間にも様々なフィリピン独特の習慣を経験することがあった。例えば、サントニーニョ教会での礼拝。親族やフィリピン人コミュニティの賑やかな集い。マノポ(目上の人の手の甲を自分の額につけるフィリピン式挨拶)。"Bahay kubo"(フィリピンでよく知られている歌「ニッパやしの小屋」)の合唱。そしてお馴染みのフィリピン料理。

言うまでもないが、アメリカではフィリピン系はマイナーだし、あまり社会の表に進出していない。ポップカルチャー系のテレビでもフィリピン系は出てこない。僕が思うに、フィリピン系アメリカ人、特にアメリカで生まれた二世は自分のアイデンティティに戸惑いながら、時には拒めない何かがそこにあるのにそれをはっきりと定義することができないジレンマと戦ったり、また時には新しい自己の発見を喜んだりしながら生きているじゃないか。

それでは実際に、アメリカ人とは何か?フィリピン人とは何か?僕はこういうことについて何年もずっと考えてきた。1998年の冬、僕はUCLAの大学院生だった。アジア系アメリカ人研究を専攻していた僕が取り組んだ修士論文はアメリカのフィリピン文学の歴史についてだった。

僕の最初の指導教官はArtista ng Bayan(フィリピンを代表する芸術家)で、「世界のフィリピン人」だった。彼はフィクション作家であり、エッセイストでもあったのだが、彼の作品には祖国の田園での自身の経験や思い出が沢山つまっている。彼のフィリピン人観によると、フィリピン人は許容範囲が広く、折衷主義(あれこれ取捨していい所を取ろうとする性質がある)、そして包括主義である。

僕の人生はアメリカ的なものとフィリピン的なもの、この二つのものと関連付けられてきたと言える。だが、アメリカ人かフィリピン人かどちらか一つのカタゴリーに僕を分類しようとする人に遭遇する時、僕は違和感を感た。たまに「アメリカ人」は僕が完全にアメリカ人になりきれてないことを咎めてくることもあった。一方、「フィリピン人」は僕のフィリピン人らしさが足りないという。確かに僕はフィリピンで生まれたわけではないし、タガログ語も話せない。そういうジレンマが存在するわけだが、僕はようやく「フィリピン人/アメリカ人とは何か」という課題に光が見えてきた。

興味深いことに、その指導教官は決して「フィリピン系アメリカ人」の理想を信じていなかった。彼にとって「フィリピン人」とはもっとグローバルで無限な存在であり、数、枠、国境、地理的・文化的特徴を超越したものであった。

いわゆる「アメリカ人」についても似たような見方をすることができる。特に文化や経済のグローバル化やボーダレス化が急速に進んでいる今日においては。ちなみに指導教官は僕を「フィリピンの同胞」に含めてくれている。僕がフィリピンに生まれていないことや、タガログ語を話せないことは関係ない。なにしろ今フィリピン人は「世界の市民」と言われたりしているのだから。フィリピン人はひとつの言語や方言に制限されないのだ。

歴史において良くも悪くもアメリカとフィリピンはお互いに依存する間柄だった。アメリカ的なものとフィリピン的なものはそこで混ざり合った。決して植民地化によってフィリピン文化が壊されたり、失われたりしたわけでははいと思う。むしろフィリピン文化は進化し、入ってくるものと適合していったといえる。逆にアメリカだってフィリピン文化に影響を受けた側面もあるはずだ。実際にフィリピン文化には他から借りてきたものも沢山あるが、最終的には独自の文化を形成していると僕は信じている。

僕達にとってフィリピン人の共通点を定義することは難しい。非常に興味深いのは僕たちは「フィリピン人の概念」を何よりも重視していることだ。僕らの多くは本物の水牛を見たことはないし、ティニクリン(Tinikling: フィリピンのバンブーダンス)を踊ったこともない。バロンやテルノスを着用するよりスーツやドレスを着用することを好む。スペイン語の名字も持っていない。それでもカリフォルニア中のフィリピン系の学生は"Pilipino Cultural Night"を催し、ティボリ族、マラナオ族、ミンダナオ島のムスリム、ルソン島のイグロット族などの非タガログ族やスペインの影響を受けなかった原住民達を称える。これらの部族の多くは様々な文化的・政治的な理由によりフィリピン共和国のフィリピン人との関連性を拒む傾向にある。

複雑な事情はあるが、現代におけるフィリピン人はフィリピン出身者のみを指すのではないと思う。フィリピン人はひとつの言語に制限されない。フィリピン人は国家や領土を越える。今日、フィリピン人は世界の至るところで帰化者、現地で生まれた二世や三世、移民、OCW(海外で稼ぎ契約労働者)として暮らしている。それぞれ、自身をフィリピン系アメリカ人、フィリピン系カナダ人、フィリピン系ヨーロッパ人、フィリピン系オーストラリア人と見なしているのかもしれない。僕の親族にもドイツやオーストラリアで生まれた人が数人いるし、サウジアラビアやマレーシアで働いている人もいる。

更に、フィリピン人は外見でも定義されることはない。(アメリカではフィリピン人はラテンアメリカ人、アメリカ原住民、アジア系アメリカ人、アフリカ系アメリカ人に間違えられることが多い)また、人種や性的指向に縛られることもない。多くのフィリピン人は純血ではないし、同性愛者やトランスジェンダーも沢山いる。それにも関わらず、彼等は自分がフィリピン人であるという強い意識を持っている。

個人的に言うと僕は自分はアメリカ人だとは思っている。選挙権を持つ市民であり、税金も納めている。これからもここに暮らしていこうと考えている。そして同時に僕は自分はフィリピン人でもあるとも思っている。ずっと思ってきたし、これからもずっと。

単純にはフィリピン人を定義できないが、僕はNapoleon Lustreの詩がしっくりくる。「You are Pilipino if you have one drop of Pilipino blood」(一滴でもフィリピン人の血が流れていれば貴方はフィリピン人である)